初心忘るべからず

レーシングドライバー菊池宥孝のレース経歴

レース経歴


FIAF4 鈴鹿サーキット シケイン

 

レースとの出会い

僕は、岩手県盛岡市で18歳まで過ごしました。

初めてモータースポーツに触れ合ったのは小学2年生の時に家族で行った旅行先です。

パンフレットの様なもので「グランデ・イソーラ」のレンタルカート場をたまたま目にした僕は、「これ乗りたーい!!」と両親におねだりしました。そして、子供用のレンタルカートに乗らせてもらい、初心者用のコースで走りました。ここで予想以上に上手く乗れたらしく、特別に上級者用のコースでも乗せてもらえる事になりました。この時鮮明に残っている記憶は、内側の2輪が浮いてひっくり返りそうになったのを覚えています(笑)

小学2年生の時に初めてカートに乗りました

旅行先から帰った僕は父親に「カートに乗りたい!」と言いました。父親からは「よし、乗せてやる。」という事で、岩手県内でレンタルカートに乗れる場所を見つけてもらったのですが、そこは大人用のレンタルカートしか置いていないと断られました。「それなら出来ないね」という事で、ここで早くも僕のモータースポーツへの道のりは一旦終わってしまいました。

 

サッカー少年だった学生時代

ちょうどその頃、幼馴染に誘われたサッカーに夢中になり始めました。毎週末の試合や練習、放課後に暗くなるまで友達とボールを蹴ったのは良い思い出です。

僕の学生時代は、サッカーと共にあったと言っても過言ではありません。全国高校サッカー選手権など、ここでは書ききれない程、沢山の経験や挫折をしました。

高校卒業後は関東圏に出てみたいという思いが強く、サッカー推薦で埼玉の大学に進学してサッカー部に所属しました。

中学2年生の時

 

レースとの再会

2度目のモータースポーツとの出会いは大学生の時でした。

当時、グランツーリスモというレースゲームをやっている友人に出会い、サッカー少年ながらモータースポーツも好きだった僕は、のめり込むようになりました。普段、大学は朝にサッカー部の練習があり、日中に授業を受けた後は自由時間でした。

その自由時間を使って練習したり、早起きや夜更かしして練習したり…

練習して上達したらオンラインのレースに出てみて…

そこで優勝すると、たとえゲームの世界であっても、日頃の練習の成果が出た感じがあり、物凄く嬉しかったです。

やがて、ゲームの世界では満足できなくなってきて、、、

現実的にサッカーで生きていくことは出来ないとも自覚していたのもあり、半年くらい悩んだ末にレーサーになりたいと考えるようになりました。それは大学2年生の冬でした。

レースを始める前

レースを始める前は、ごく普通に遊んでいる大学生でした。

 

レーシングドライバーとして歩み出した大学3年生

両親に「本気でレーシングドライバーになりたい!」「25歳までで芽が出なかったら諦めるから支援して欲しい!」と何度も説得して、「就職を控えている大学生が何を言ってるの?」「企業に就職して企業のサポートを受けて出来ないのか?」と最初は反対されました。僕は、

  • 正直、なんの実績も無い自分には就職しても企業のサポートは受けられない
  • 自分自信で1から実績を作り上げなければいけない
  • 芸能界で一花咲かせるよりも厳しいとも言われる世界だけど本気で挑戦したい
  • 厳しい世界だからこそ本気で活動する必要がある

と正直な気持ちを全て話して説得した結果、最終的には応援してくれることになりました。

「金も無ければ、コネも無い、実力も無い」

無い無い尽くしのレース活動から始めることになりました。

 

いよいよ始まったレース人生。まずはレーシングカートから。

レーシングドライバーを目指して、まずはレーシングカートに乗りました。1年目、2年目はローカルレース(各サーキットで開催されるシリーズ戦)、3年目は全日本カート選手権に参戦しました。

初めてレーシングカートに乗ったのが、2015年3月。毎週2〜3日の練習で、あばら骨を痛めるまでひたすら走り込み、レーシングカートを自分の手足のようにコントロール出来る技術を磨きました。

僕は細かく理論的に組み立てたがる性格で、理想のコーナリングについてチーム監督に細かく聞き、実践するものの「コーナー進入で向きが変わっていない」「ブレーキ踏力の調整が出来ていない」など、自分の中では再現しているつもりの動かし方が、客観的に見ると全く出来ていないという、問題の克服に時間がかかりました。

徹底的に走り込んだ1年目

 

レース人生初優勝

初優勝は、始めて5ヶ月目の8月。その前のレースは1位からスタートしましたが、スタートに失敗しクラッシュしてリタイアしていました。

「ぶつけられないくらいぶっちぎりで勝つ」「同じ失敗は繰り返さない」そう強く思い望んだレース。タイムトライアル、予選レース、決勝レース全てで1位を獲り、後続を大きく引き離し初優勝しました。

レース人生初めての優勝シーン

 

最初の挫折

初優勝した僕は、日本で最も競技人口が多く、ハイレベルな次のステージ、「YAMAHA SSクラス」にステップアップしました。

初優勝した時のタイムからしても、YAMAHA SSクラスでも上位を争えると周りからも考えられていました。

しかし、蓋を開けてみるとタイムも遅く、レースはバトル下手で下位争い、「あんなに走り込んできたのに」「優勝は偶然全てが上手くいっただけだったのか?」

そんな思いを抱えた1年目の後半は、ほとんどが下位争いで時々中団争いに加わるのが精一杯のシーズンでした。

「このままでは早くもレース人生が終わってしまう」強い危機感を持ってオフシーズンに入りました。

1年目に全国大会に出場するものの惨敗しました

 

徹底的に走り込んだオフシーズン

この頃は練習の質を高めようと意識しすぎて、練習量が週1〜2日に減っていました。「考えていてもダメ。下手なんだから走り込むしかない」

レーシングカートを始めた頃の初心に戻って、オフシーズンの走り込みを決意しました。

まずは、どこのコースを走り込もうか考え、一人暮らししているアパートから高速で1時間くらいの場所にある「榛名モータースポーツランド」をホームコースにしようと決めました。

なぜ榛名モータースポーツランドをホームコースにしたのかというと、それまで低速コースばかり走っていましたが、いずれは出場したいと考えていた全日本カート選手権を見据えて高速コースに慣れようと考えたからです。

当時、全日本カート選手権を勉強するため、チームに帯同させてもらっていて感じたことが、「大きなコースの走り方がある」という事も、この選択を後押ししました。

そのため、走り込みの出来る大きなコースを走りたいと考え、2016年は榛名モータースポーツランドを主戦場とする事にしました。

 

飛躍した2年目

走り込みの成果もあり、開幕戦から上位を走る事が出来ました。しかし、目標は優勝する事であり、速さを示すのは当たり前の事です。

「まだまだ練習が足りない!」強く感じた僕は、サーキットに程近い、伊香保グランドホテルの別館「黄金の湯館」で雑魚寝で泊まり、「一人合宿」を繰り返しました。

ここは寝るのには少し環境が悪かったのですが、当時1泊800円くらいで泊まれたため、お金が無い僕は非常に助けられました。※2019年1月現在、特別営業日以外は泊まれないようです。

一人群馬県に泊りがけで走り込みました(榛名モータースポーツランド)

練習を積み重ねた8月、ようやくYAMAHA SS初優勝を達成します。

予選、マシントラブルで最下位の15位からスタートしますが、5位まで挽回します。迎えた決勝、1周目で3位まで上がり、早い段階で2位も攻略しました。1位のドライバーが少し抜けてたのですが、なんとか追い付きます。そこから最終ラップまで、抜いたり抜かれたりのバトルを制し、YAMAHA SS初優勝する事が出来ました。

さらに次のレースでは、雨が降ったり晴れたりと大変なレースでしたが、タイムトライアル、予選、決勝全てで1位を獲り、パーフェクトウィンで2連勝しました。

この時から、「初心に戻って練習して良かった!」と思い、「初心忘るべからず」という言葉を常に頭の中に置くようにしています。

YAMAHA-SSクラス初優勝

 

全日本カート選手権へ参戦

2017年は全日本カート選手権に参戦しました。このカテゴリーは、幼少期からレーシングカートで腕を磨いてきた10年以上のキャリアを誇るエリート達が集まるカテゴリーです。

今まで参戦してきたカテゴリーとは別次元のグリップが発生するタイヤとハイパワーエンジンで体に掛かる負荷も大きいです。さらに、年間予算も500万円を超えるため、練習も大切ですが資金を調達するのも大変で、そうそう簡単には結果が出ない事は分かっていました。

初めて全日本カート選手権仕様のマシンに乗った時、強烈な遠心力に10周しか耐えられませんでした。

練習が無い日は朝から晩まで働き、レースか仕事かの日々を過ごしました。

資金が許す限り多くの練習を積み重ねて、全日本カート選手権に挑戦しました。

2017年は全日本カート選手権にシリーズ参戦

 

ボロボロに負けた全日本1年目

毎レース30台前後エントリーする全日本カート選手権ですが、シーズン前半の僕は体力不足やハイグリップタイヤの使い方が下手で、常に下位や中団より後ろを走っていました。

シーズン後半はかなり体力も持つようになり、ハイグリップタイヤの特性も掴めてきたこと、マシンのベースセッティングも決まってきたことで中団より前を走る事が出来たり、予選で上位に食い込めたり、少しだけ上位を走れる希望が見えた時がありましたが、結果的には表彰台にすら登れず、自分の力不足を感じた全日本カート選手権1年目となりました。

後半戦は時折速さを示すものの表彰台は乗れず

 

次のステージへ。いよいよフォーミュラ挑戦。

本当は2年目の全日本カート選手権に挑戦したかったのですが、すでに若いとは言えない僕は、早めにフォーミュラカーと呼ばれるレーシングカーでのキャリアを始めたいと考えました。

過去にレーシングカートからフォーミュラカーにステップアップしたドライバーの中には適応に苦しむドライバーも多かったため、早くから練習する必要があります。かといって、レーシングカートとフォーミュラカーが全く違う乗り物かというと、そういう訳でもありません。速く走るために必要なことは共通しています。

全日本で感じた反省をフォーミュラの舞台で生かそうと考え、戦いの舞台を変えました。

スーパーFJ 2018

2018年からはフォーミュラカーにステップアップ

 

まずはチーム探しから

フォーミュラカーでレースをする事に決めた僕は、チームを探しました。条件は速いドライバーが所属している強豪チーム。ホームコースはどこでも良かったです。

リザルトを調べて、最初に候補に挙がったチームとコンタクトを取り、シートが空いてるという事で2018年の所属先が決まりました。

そのチームのホームコースは「岡山国際サーキット」。

僕は、2018年は岡山で走り込む事に決めました。

岡山国際サーキット

 

エリート街道最後のチャンス

フォーミュラ挑戦と共に、SRS-F(鈴鹿サーキット・レーシングスクール・フォーミュラ)という世間一般的にはプロテストと呼ばれる育成プログラムに挑戦しました。

SRS-Fとは

自動車メーカーのホンダが次世代を担う若手ドライバー発掘のために開催しているプログラム。

ここで高い評価を受け、国内レースで好成績を収めると、ヨーロッパの上級フォーミュラレースにホンダの支援で参戦する事が出来る。

ヨーロッパでのレースは、1シーズン1億円を超える予算が必要になる。そのため、お金持ちの家庭でない限り自費で参戦するのは非常に困難なカテゴリーであり、スポンサーを獲得して資金を持ち込むのが一般的なシートの獲得方法。

その持ち込み資金をホンダが支援してまで育てたいドライバーを探す目的で始まったのがSRS-Fになる。

 

このプログラムの年齢制限は24歳以下でしたが、実質10代の若手のみが受かってきた過去があります。僕は、23歳。「ここでダメなら諦めよう」と思って受けました。

フォーミュラカーに乗った事がありませんでしたが、「才能があるドライバーは初めて乗った車でも乗りこなせる」と考え、フォーミュラカーの経験が無かったものの、講師陣から受けたアドバイスをいかに素早く自分のものに出来るかが勝負でした。

周りはみんな、フォーミュラカーのキャリアがあったり、事前に乗って練習してきたりした若者達。僕のようにSRS-Fで初めて乗ったドライバーはいませんでした。

F3のようなSRS-Fスクールカー

SRS-Fは3次選考まであります。1次選考を突破し、3日間の2次選考が始まりました。

迎えた初日、なんとノロウイルスになってしまい1日目のプログラムを受ける事が出来ませんでした。点数を付けて評価されるため、かなり絶望的な状況になってしまいましたが「最終日じゃなくて良かった」と前向きに考えて、その日は病院で点滴して安静にしていました。

薬が効いてきたのか、夜には普通に歩けるくらいに体調も戻ってきて、翌日の2日目から参加出来ました。

1次選考より一層速いドライバー達が集まった2次選考。のちに、首席を取ったドライバーもいました。

「ここで何とか食らいつけたら長い期間で判断される3次選考まで進める。3次選考はフォーミュラで練習しながら受けられる分経験の浅い自分は伸びしろがあり、有利になる」そう考えていたため、2次選考で落ちる訳にはいきませんでした。

最終日のタイム計測。直前にミッションを痛めてしまい、急遽マシンチェンジ。講師陣が乗っていた車をドライブしました。

「講師陣がタイムを出した車だから完全にドライバー力の比較が出来る絶好のチャンスだ!」今の実力を最大限に発揮しようと、一生懸命走りました。最終ラップはスピンしてしまいましたが、実力は出し切った納得のいく走りでした。

5番手以内に入らなければ後が無いと分かっていました。

結果は8番手タイム。

事実上この瞬間に僕に残された道が1つ無くなりました。

 

挫折から始まったフォーミュラ1年目

SRS-Fの落選から始まった2018年、シーズンはまだ始まっていませんでした。ホンダの育成ドライバーに入る道は消えましたが、いつまでも落ち込んでいる訳にはいかないので、SRS-Fで得た貴重な経験から改善点を洗い出し、シーズンに入りました。

2018年は毎月1~2回、スーパーFJのホームコースにしている岡山国際サーキットに通いました。一人暮らしをしている埼玉県から車で行くと、8時間以上かかります。僕はレースに集中するため、多少お金は掛かりましたが飛行機で岡山県に通いました。

走りに100%集中出来るように練習前は良い環境作りを意識して、前泊で岡山入りしました。走り終わったら少しでも費用を節約するため、その日の最終便でレースレポートをまとめながら羽田空港に向かい、家に着いた時には夜中の0時を回っていることが多かったです。

僕は、あえてレース翌日は仕事に行くようにしました。翌日を休みにしてしまうと1日中休んでしまうため、2日後くらいに休みを取りレースレポートを完成させて公開しています。「自分に甘えない」「努力が足りていない」と考えることで、有意義な休日を過ごすことが出来ました。

体力的には苦しかったのですが、一人での遠征は最低限の荷物と外食ばかりです。仕事しながらの一人暮らしよりも考えることが減る分、自分自身に向き合う時間が増え、かなり成長することが出来ました。

結果は、岡山国際サーキット シリーズランキング2位。日本一決定戦は7位でした。

2018年最高位2位、目標としていた優勝は出来なかった

フォーミュラカーは非常にお金が掛かるカテゴリーで、レーシングカートのように多くの練習が出来ません。そのため練習の質を高める必要がありました。

僕は全ての走行枠で改善点を洗い出し、それを次の走行枠で克服するという流れを作りました。これはPCDAサイクルと呼ばれるものです。地道な作業ですが、1年間を振り返って、このサイクルにして良かったと思っています。

最終戦は初めて予選で1位を獲得しました。「1年間やってきた事は間違いではなかった」。これからもっと良くなるように頑張ろうと誓いました。

 

2018年日本一決定戦

僕は直前のレースで予選1位を獲得していたため、それなりの自信を持ってツインリンクもてぎで開催された日本一決定戦に挑みました。

しかし、予選総合10位、決勝7位と、全く目立つことが出来ずに終わりました。

さらに上位3台は自分より1秒以上速く、大きな力の差を感じました。「ああ、まだまだ俺は力不足なんだ」「まだ自信を持てるほどじゃないんだ」そう強く感じた日本一決定戦でした。

僕は、上位3台の圧倒的な速さを目の前にして、自分が目指すべきものが「圧倒的な速さ」であるとハッキリ分かりました。

 

チャンピオン争いから学んだ2019年

2019年も引き続きスーパーFJ岡山シリーズに参戦しつつ、日本一決定戦に向けて鈴鹿シリーズにもスポット参戦しました。

岡山シリーズ開幕戦。いきなり予選ポールポジションを獲得し、幸先良いスタートを切ったように思えました。しかし、決勝レースでは2番手のライバル、入山選手に抜かれてしまいそのままチェッカー。

悔しい開幕戦となりましたが、その後の第2戦.3戦ともに、ポールトゥウィンで2連勝。ランキングも逆転し1位に浮上します。

チャンピオン争いの難しさを痛感した2019年

そして夏を迎え、1大会2レース制のサマーフェスティバルが始まります。鈴鹿シリーズの上位勢も数多く参戦し、僕は予選2位。1位のドライバーは鈴鹿シリーズで全勝中の日本一最有力ドライバー、澤選手でした。

「岡山はホームコースだから、ここでは彼に勝ちたい…」正直チャンピオン争いよりも、目の前の優勝を目指していました。

レース1のスタートで澤選手が少し出遅れたため、1コーナーで抜けそうな間合いになります。「ここしかない!」そう考えて、イン側に飛び込みました。

しかし、そこで接触しスピン。最下位の23位まで落ち、10位までしか追い上げられませんでした。

そして、翌日のレース2は10位スタートで5位までしか追い上げられず…

チャンピオン争いをしている入山選手は両レースとも上位でゴールしたため、かなり絶望的な状況となりました。

しかし、レース1でチャンピオン争いをしていない澤選手に挑んだことは後悔していません。鈴鹿で圧倒的な速さで勝っているドライバーに挑むチャンスがあったのですから。

最終戦では、予選でポールポジションを獲得したものの、決勝レースでは入山選手に抜かれ、彼のチャンピオンが完全に決まりました。

チャンピオン争いの難しさと、1位を獲りたい欲望のコントロールの難しさを痛感したシーズンでした。

 

何かがおかしい?日本一決定戦

2019年のスーパーFJ日本一決定戦に向けて、鈴鹿シリーズにスポット参戦していました。

鈴鹿シリーズでは、フルコースのレースと、東・西コースのレースが代わる代わる開催されます。

資金的に余裕がない僕は、フルコースの2大会3レースに照準を絞り、日本一決定戦に向けて参戦しました。まず最初の1大会目は6位。次の2大会目は、2レースとも2位となり、まずまずの手応えを感じていましたが、日本一決定戦はそうそう上手くいくことはありませんでした。

2019スーパーFJ日本一決定戦

ドライバーとしての課題を突き付けられた

迎えた日本一決定戦のレースウィーク。出場メンバー的には、僕が出場した鈴鹿シリーズに速いドライバーが数人増えた程度でしたので、やはり表彰台が最低目標といった感じでした。

しかし、レースウィークに入るといつもと違うマシンバランスに苦戦しました。他のドライバーたちも同じように苦戦しており、誰が素早く対応できるかが勝負の分かれ目となる気配でレースを迎えます。

しかし僕は、全くと言っていいほど合わせきれず。。

反対に、鈴鹿シリーズで上位を走っていた速いドライバーは、しっかり対応したので言い訳は出来ません。僕はそこに上手く対応することが出来ずに、12位でレースを終えました。

ちなみに優勝したドライバーもレースウィークでは苦しんでいたので、完全に僕の実力不足です。彼は2020年にフランスF4でチャンピオンを獲っていますし、僕は日本のF4でランキング16位ですので、それくらいの違いがあったということでしょう。

新たな課題を持ち、2020年のFIA-F4 Japanese Championshipに参戦するための準備に取り掛かりました。

 

ようやくFIA-F4参戦が叶います

念願のFIA-F4参戦

スーパーFJでは思うような結果が出ませんでしたが、フォーミュラカーの経験を積み、最低限の結果は出したことから、2020年はFIA-F4選手権に参戦することを目標としました。

資金的に余裕がない僕は、大阪トヨペットグループ様と住友ゴム工業株式会社/ダンロップ様のご賛同を得て行われる、4代目F4チャレンジドライバーに応募しました。

このオーディションに合格すると、メーカー系の育成ドライバーに限りなく近い環境でFIA-F4選手権に参戦することが出来ます。ドライバーの持ち込み資金の負担もかなり少ないです。

メーカー系の育成ドライバー以外は、ほぼ全てのドライバーが狙っているシートととも言えます。もちろん僕もこのシートを狙って応募しました。

しかし結果は不合格。正直この瞬間、僕のFIA-F4参戦は叶わないという未来が頭をよぎりました。レーシングチームとしても、資金力があって若くて速いドライバーを求めるからです。

そのため、資金力がなく大人になってレースを始めた僕を、受け入れてくれるチームを探す必要がありました。

ただ、これくらいで諦めるわけにはいきません。何かチャンスはないかと模索していたところ、2019年のスーパーFJ鈴鹿シリーズでスポット参戦だったものの上位ランキング入りしていたため、表彰式に呼ばれました。

そこで、ライバルのドライバーとその家族の方と話したことがキッカケで2020年のFIA-F4参戦が決まりました。

周りの方々に助けていただいて得たFIA-F4の参戦で、自分一人の力では得られなかったシートです。

 

いよいよFIA-F4デビュー

実は僕がレースを始めた2015年にスタートしたのがFIA-F4 Japanese Championshipです。

当時は憧れの視線で見ていたレースでしたが、あれから5年が経ち、トップを目指すために必要な道のりの過程に変わりました。

当然、憧れの舞台に立ったというフワフワした感情はなく、「結果を残すためにやるべきことをコツコツやろう」と落ち着いてレースに向き合いました。

2020年は世界情勢の変化もあり、10月から11月にかけて4大会12レースというレーススケジュールでした。

いよいよFIA-F4デビュー

シーズンが開幕すると、予想通りメーカー系の育成ドライバーたちが速かったのですが、彼らと争うドライバーの中に2019年に一緒にスーパーFJを戦ってきたドライバーもいました。

一方で僕の方は上手く乗りこなすことが出来ず、トップ10に入ることが目標になってしまっていました。

結果は、鈴鹿大会の3レースで、10位、7位、10位とポイントを取れた一方で、富士の2大会、もてぎの1大会ではノーポイントに終わりました。

率直に、スーパーFJで少し自信をつけていたところで現実を知った感じです。自分のやってきたことが間違っていたことを確認できた2020シーズンでした。

ぶっつけ本番にせざるを得なかったシーズン中は、「練習する資金が不足している」と言い訳したくなる弱さを出してしまう時もありました。

しかし、「たくさん練習しているドライバーたちは、僕以上にレースに対して真剣に取り組んでいる」と同じレースを走って肌で感じ、自分の未熟さを認めざるを得ませんでした。

FIA-F4にまでなると、資金があるからと言って速くなるドライバーはいません。上位を走るドライバーは皆、資金を絶対無駄にしないように本気でレースに向き合っています。僕自身、「もっとレースに対して向き合うことが出来たのではないか?」と反省だけが残りました。

 

【諦めない】2021年もFIA-F4選手権に参戦するために…

【諦めない】2021年もFIA-F4選手権に参戦するために…

2021年に向けて、再びFIA-F4選手権に参戦し、【表彰台獲得・優勝・ランキング3位以内】を目標にしています。

しかし、予算面で諸事情があり、2021年シーズンは何も決まっておりません。1年前も同じような状況でしたので、まだまだ諦めることなくオフシーズンの活動を頑張っていきたいと思います。

このまま終わるわけにはいきません。

そして、僕のレースが誰かを勇気づけるキッカケになれたら、これ以上幸せなことはありません。

2020年のFIA-F4選手権に、僕を見るために来ていただいた方がいました。

イケイケの育成ドライバーでもないのに。

それが本当に嬉しくて嬉しくて…。

レーサーである以上、結果を出すことは生き残るために必要です。しかし、そういった目に見えない何かを与えられるようなドライバーになりたいと心から思っています。

今後とも応援のほどよろしくお願いいたします!

よろしければご覧ください→2021年度レース参戦企画書

写真提供:BAN+ RACE Photo 様、FIA-F4公式サイト 様、にゃん太 様、FUKAYA 様、久家 様、rino 様、槙 様、1honechan 様、助野 様、南博幸 様